福島の日々、「それでも」に込めたのは がんと闘う記者

 パソコンで「それでも」と打ってから、あれ、と思った。福島を離れて初めてコラムを書いたときのことだ。福島で働く以前は使っていなかった気がしていたが、福島以後の過去の記事を調べると、ぞろぞろ出てきた。

 やっぱり……。しばし感慨にふけった。この接続詞こそ私にとって福島の記憶なのだ、と。当時の日々がひとつの言葉に結晶して自分に刻まれていたのだと気づいた。

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 私が一線の記者の原稿を直し、最終的に出稿するデスクとして福島総局で働いた2年弱。原発事故で日常生活を損なわれながらも、困難に立ち向かう人々の物語を書いてきたある記者が、原稿でよく使っていた接続詞が「それでも」だった。

 東京電力福島第一原発の周辺に出ていた避難指示がぽつぽつと解除されだした時期だ。だが人々は健康への不安や様々な事情から、誰もがすぐふるさとに帰れるわけではない。その間にも、県外で事故の風化が進んだと指摘された。

 総局にはまっすぐな記者が集まっていた。踊りに使う太鼓や衣装を津波で流されながらも「祭りは町そのもの。原発のためにやめられっか」と民俗芸能を復活させた住民の話。あるいは、生徒の心を傷つけるかもと心配しつつ、震災体験を授業で取り上げることにした学校関係者のこと――。

 前段と後段をつなぐ役割で、「それでも」がしばしば出てきた。同じ接続詞でも、「だが」や「しかし」とは違う。鼓舞するような、気分がクッと上向くようなニュアンスがこもっていた。

 下手をすると文章が一本調子になるおそれがあるが、ほとんどは削らずに残した。立ち上がろうとする取材相手を応援したいという筆者の気持ちが、文章から伝わってくるからだ。いつしか自分の気持ちもそれに重なり、言葉そのものが定着していった。

 たとえば、若手が書いてきた原稿にメリハリが欠けていると感じたときがあった。「それでも」とやったうえで構成を手直しすると、とたんに文章に人の血が通い、背骨が通った気がした。

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 病気で福島を後にして半年近くたったころ、休日にその地を訪れた。

 気になっていた被災地の何カ所かをレンタカーで回り、あいさつできないまま別れていた知り合いに会った。

 地元紙勤務の彼は、福島産品の風評被害の話題を持ち出しつつ、前向きな話をいくつかしてくれた。まさに「それでも」だ。そして最後に「野上さん、福島のサポーターになってください」と言った。

 当たり前だと思っていた日常が断ち切られる辛さを、病身の今ならばもっと理解できる。当時わかっていれば紙面でよりサポートできたかもしれないとも思うが、去った日々は戻らない。

 「それでも」が深く自身に刻まれたのはもう一つ、この病気のことがある。

 福島での日々が、この言葉を通して自分自身を鼓舞してくれている。そんな気がしてならない。

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 野上祐(のがみ・ゆう) 1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた昨年1月、がんの疑いを指摘され、2月手術。現在は抗がん剤治療を受けるなど、闘病中。

(出所:朝日新聞デジタル(AERA.dotに転載)連載「がんと闘う記者」、2017年1月11日掲載)

同僚と笑顔で雑談する筆者=昨年8月、東京都中央区築地の朝日新聞東京本社で、瀬戸口翼撮影

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