難治がんの記者が経験した「三つの苦難」 底なし沼のような3カ月を脱するのにしたこと

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は2度目の手術の1カ月後から経験した「三つの苦難」について。

【「読めない」時期を脱するのに役立った3冊の本】

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 ずぶずぶと底なし沼にのみ込まれていくような3カ月間だった。一昨年の暮れから三つの苦難が次々にやってきて、追い詰められていった。

 まず、本が読めなくなった。

 そもそも読書のことでは悩んでいた。寿命が限られていることを考えれば、本で得た知識を生かす機会もなければ、本を楽しんでいる余裕もないのではないか、と。読めるうちは読もうと決めた矢先に起きた異変だった。

 2度目の手術の翌月にあたる2016年12月。入院中のある日気づくと、本を読み出していつも2、3ページで閉じてしまう自分がいた。何を読んでも脳みそに霧がかかったようで、残らない。情報を収める引き出しが開かないといえばいいだろうか。

 加えて、筋力も衰えている。「腹筋がないから座っていられない。腕の筋肉がないから読書もできない。寝たきりになる」と配偶者にこぼした。

 なんだ本ぐらい。そう思う方も多いのではないか。だがこの頭では、治療や検査について肝心なときに、何も判断できない。寝たきりの深刻さは言うまでもない。考えるほど不安が募った。

 これに追い打ちをかけたのが息苦しさだ。配偶者と並んで院内の廊下を少し散歩するだけで、胸も気分もせっぱ詰まってくる

 肺が一回り、二回り縮んだ気がする。結果、吸って吐く間隔が短くなっていく。ハッ、ハッ、ハッ。目をつぶり、息が整うのを待ちながら、暗い気分になった。これが生涯続くのか。

 三つ目は脚にきた。夕方になるとむずむずし始めるのだ。動かして気をまぎらわせるが、1分とたたずに居ても立ってもいられなくなる。マッサージも効くのはその間だけ。眠りが浅くなり、疲れがたまっていった。

これが「むずむず脚症候群」という病気だとわかるのは、手術後の入院を翌1月にいったん終え、自宅に戻ってネットで検索してからだ。

 かわいらしいのは名前だけ。初めて訪れた病院では名前が呼ばれるのを座って待っていられず、受付の声が届く範囲をぐるぐる歩き続けた。周りの視線にふと思った。まるでおりの中の動物じゃないか。

 それで文章を書けるはずもない。2カ月前のことを取り上げたコラムを1月に載せてから次までは、3カ月間空いた。「インプットがない。自分はカスカスです」。先輩にぼやいたのはこのころだ。

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 根治はしない。そこは理解してほしい――。そう言われたのは2度目の手術後だ。さらに言えば、私のがんは共存・共生を望めそうなものでもない。

 もしも知り合いからがんについてアドバイスを求められたら、現在進行形の患者として何を伝えるだろうか。真剣に考えるほど、ごく月並みなことしか頭に浮かんでこない。

「信頼できるお医者さんや看護師さんに体や心の状態を丁寧に説明し、これからどうするか、よく相談してください」

 その相手をどう見つけるかはこの際さておく。主治医でも、セカンドオピニオンを求める医師でも、大切なのは多くの患者に接した人と話すことだ。

 性格やそれまでの生き方と同じく、体の具合は人によってさまざまだ。似た症状に同じ治療をしても効果は違う。「風邪にはなんとか」という風邪薬のテレビCMのように、これにはこれ、というコツやノウハウはないと考えたほうがいい。「闘病記は1冊は読んでいい」と以前書いたように、過去にがんと付き合った誰かの体験談から一通りの流れを知り、心の平穏を得るのは構わない。ただ、多くは自分の例しかわからないのだから、治療や生活の参考にするやり方はよく考えて――と。

 私は「むずむず」がネットで見つかってすぐ、医師をしている中高の先輩に相談した。そのアドバイスで病院を訪れ、一部の飲み薬を別のものに換えるとともに、そのための薬を処方してもらった。途端に症状はうそのように消えた。

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 しかし、専門家に相談すれば解決するとも限らない。中には症状と見なされず、自力でどうにかするしかない場合もある。

 私の場合、「読めない」は先ほどの先輩や主治医に話したものの、がんとの関係も含め、はっきりしたことはわからなかった。

 だが放っておくわけにもいかない。

まずは週刊誌『AERA』に頼ることにした。長くない記事を読んでいけば、長いものも読めるようになるのではと踏んだが、効果はなかった。一方、月刊総合誌『文藝春秋』を1日で読み通せたこともあった。その厚さに、わずかに自信が芽生えた。

 読めなくなる前に手にした本に、明治時代の思想家、内村鑑三の『後世への最大遺物』がある。入院中に同期の記者からもらい、何かを残した人への関心が心の中でくすぶっていた。

 自宅の本棚にあった『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)にひかれたのは、治療や検査をめぐり、選択が続いた日々からの連想だろう。

 二つが結びつき、本棚にあった『山県有朋』(岡義武著)を手に取った。戦争の中核となる陸軍制度を残した人物であることは言うまでもない。

 これが、「読めない」日々を抜け出すきっかけになった。試行錯誤の末、昨年3月には大手の本屋で目についた本を興味のおもむくまま買い込んだ。少しずつ頭の霞は晴れていった。

「明治の元勲」が効くのは私ぐらいだろうか。ただ、かつての習慣や関心はいざという時に助けになるのかもしれない。

 これに対し、「息苦しい」は打つ手なしだった。病院で酸素濃度をはかっても、酸素は足りているという結果ばかり。そもそも症状とみなされなかった。

 こちらは努力のしようもない。それで放っておいたのがかえってよかったのか、いつの間にか意識から消えていた。

 思い起こせば、院内で感じた息苦しさは、気にするほど増していたように思う。「気にしないから苦しくない」「苦しくないから気にならない」。二つが相まって解消されたように思う。

 それにしても、追い詰められていたころの自分はひどかった。ものでも、ほかの患者でも、目にすると不愉快でたまらない。心の中を配偶者に聞いてもらい、気を紛らわせた。

 また体がしんどくなれば「前科」を繰り返すだろう。それを少しでも抑えるために、今のうちに自分に言い聞かせる。

 あらゆる手を打っても、残る苦しみは残る。それには耐えるしかないのだ、と。 (出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年7月28日掲載)

「読めない」時期を脱するのに役立った3冊の本

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