「難治がん」の記者が“うまい”に感じる切実な思い 心に残る「ひっかき傷」とは?

働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。

【コラム執筆用のノートに後輩が書いた『対角論法』】

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 10日に都内の病院を退院してから、そば屋めぐりをしている。通院帰りなどに吐き気や疲れがひどくなければ、ネットで評判のいい店を調べて足を運ぶ。

 年配客に交じりそば湯を飲む。うまい、と感じられる幸せは、ほかのお客さんよりも切実かもしれない。ありがたい、と思う。その言葉は「珍しい」から来ていると実感する。昨夏まで、使っていた抗がん剤の副作用で味覚障害にたびたび見舞われたせいだ。

いずれ体調が悪化して新しい抗がん剤を使いだしたとする。「味の輪郭がぼやける」としか言えない事態にまた襲われるかもしれない。それならばと配偶者がさらに手間をかけた料理や、気分転換のための外食を「うまい」と心から言えなくなり、悲しむ彼女を見る悲しさ。そうなる前に「うまい」となるべく言っておきたい。

 しょっぱなから辛気臭い話になった。まあ、しょせんそば一杯の話と思ってお付き合いいただきたい。

 のれんをくぐったら、メニューを隅から隅まで眺める。目で味わい、けっきょくは鴨せいろを注文する。先日、「同じものばかり」と笑う配偶者に「同じものを食べないと店ごとの味を比べられない」と答えた。無意識に返してから、待てよ、と思った。比べるなら看板メニュー同士でもいい。鴨せいろもたまたま1軒目で注文しただけで、とくに好きなわけでもない。なのになぜこれと決めているのだろう。

 もしかして、と思いついたのは数日後に別のそば屋に向かうときだ。

 そういえばこのところ「何々がこれこれだとすると……」という定義や仮定が含まれている文章を読むことが増えた。それがどこかに刷り込まれているのではないか。むろん、そのせいばかりではないだろう。しかし、いつの間にか「看板メニューで比べるとなると、それは注文の多さか、店の力の入れ具合かといった仮定が増えてしまい、比べにくくなる」と理屈をこねている自分がいる――。

スマートフォンの記録を見ると、私が数学を学ぼうと急に思い立ったのは、そば屋めぐりの1カ月前のことだ。先月16日、見舞いにきた大学の後輩に近況報告もそこそこに尋ねた。「数学の最先端が今どうなっているか知りたい。それに必要なことだけ勉強するには家庭教師をつければいいだろうか」

 数学科出身の彼も今やすっかり銀行マンだ。記憶を思い起こし、額にあぶら汗を浮かべて説明してくれたが、それを聞いても何が分からないかすら分からない。後日、やはり大学で数学を専攻した先輩記者に「初学者」向けという本を紹介してもらった。これを読む準備として新書や文庫を4冊買い、ほそぼそと読み進めている。

 これは私にとっては、残り時間の使い方に関わる大転換だ。がんの疑いを指摘されてから今月15日で丸2年。これまでは「残された時間で何を残すか」だけで頭がいっぱいだった。本を読んでいる余裕があるのかと、悩んだ時期もあったほどだ。そんな自分が、大学以降は触れていない、間違いなく何も残すことのない数学に手を出すとは。

背景には、コラムを書くうちに、自分1人で完結する世界を持ちたくなったことがある。同時に、先人が残した真理を知らずに死んでいいのかと、強く思うようになった。とはいえすべてには手が回らない。頭に浮かんだのが、あらゆる自然科学の基礎という印象があり、ロマンを感じていた数学だった。

 話は高校時代に校内で開かれた夏期講習会にさかのぼる。白いあごひげの教師が、数学の得意な生徒たちと合宿した思い出を語り始めた。

「数学の歴史を1ミリでも前に進めたかった」「数学の歴史にひっかき傷をつけたかった」

「1ミリ」「ひっかき傷」。ささやかさを強調する言葉に、かえって歴史や真理の壮大さが際立った。

 ちなみにこの「ひっかき傷」はよほど私の心に響いたらしい。記者の仕事内容について6年前に受けたインタビューを読むと、自分が手がけた調査報道を「新聞記事が社会に『ひっかき傷』くらいの変化をもたらせることがわかりました」と得意げに振り返る言葉が残っている。

 数学の世界で最近注目を集めたものといえば超難問「ABC予想」だ。日本人研究者が証明したとする論文が専門誌に掲載される見通しになったと報じられた。実社会にどれだけインパクトがあるのか、記事を読んでも私にはわからない。だが政治家や捜査官といった形ある人間ばかり取材してきたせいか、そのつかみどころのなさに逆に魅力を感じてしまう。

 このコラムはがん患者として思い、考えたことを世間に向けてアウトプットしている。これに対し、人生を味わいつくすインプットが数学の勉強であり、場合によっては鴨せいろなのかもしれない。

 昼下がりのそば屋で、背中を丸めた一人のがん患者がズ、ズッとそばをすすっている。急に食べて胃が驚かないよう、少しずつ口に運んでいる。手元のバッグには財布に身体障害者手帳、食後の飲み薬、そして数学の新書。1ミリたりとも数学の歴史は進めないけれど、せめて先人がつけた「ひっかき傷」を指でなぞりたいと、愚かしくも思い定めている。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年1月20日掲載)

コラム執筆用のノートに後輩が書いてくれた『対角論法』の説明。ここにも「仮説」の文字が見える

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