「難治がん」の記者 「いま自分は本気で生きているか」新年の“カレンダー”に思う

新年は東京都内の病院で迎えた。

【病院で出された「おせち」の折り詰めはこちら】

 その瞬間、ベッドから見上げた天井はひどく白かった。その前1カ月ほど、3、4日に一度ほどのペースで体温が40度前後に上がっては下がることを繰り返していた。長いな、と思っていた先月30日に主治医から電話があり、「血液の培養検査でかびが検出された」という。病院への移動中に吐いてもいいように、スーパーのビニール袋をふくらませてタクシーに乗り込み、そのまま入院した。

 抗生物質の点滴で熱はすぐに下がった。だが何日かたつと、案の定、生活のリズムが変わった悪影響が出はじめた。ふだん通りに薬を使っているのに両膝下のむずむずがひどくなり、2晩続けてほぼ眠れなかった。むろん頭も働かない。
入院していても、用事は1日1時間の点滴だけだ。だったら自宅から点滴に通えばいいのではないか。医師に尋ねた。

 体のことを考えたらまだ退院は早いですよ――。そんな答えを予想していた。ところが返ってきたのは、いったん退院すると再入院するときに都合が悪い、というもの。「体調とは関係ない、病院側の都合で申し訳ないが」と医師は言った。

 ならばかたちだけ入院を続け、外泊許可を毎日出してもらえないか。必要な費用を支払い続ける代わりに事実上退院するいいアイデアだと思ったが、これもまずいという。「何日間も続けて外出許可を出すと、事実上退院できる体調の患者をなぜ入院させておくのかと(行政の)監査が入るかもしれない」

 思わず突っ込んだ。

「それって、私の体調とか治療と、何の関係もありませんよね?」

 今回の入院では都合3回、このセリフを言ったと記憶している。いやそうではない、という反論は一度もなかった。患者とのやりとりを円滑にするための方便だったと信じたい。

 病院の都合で体調が悪化しかねない――。自分の常識とかけ離れた境遇をどう理解したらいいか。そう考えたとき、思い浮かんだのはやはり日常生活では使わない用語だった。「疎外」。監査などの制度は人間が作ったものなのに、今やその手を離れ、患者や医者を振り回している、と。

入院患者にお正月気分を味わってもらおうと、この病院では、お正月に「おせち」が食事につく。真っ白な空間に現れた朱色の入れ物に、牛乳のコップに一滴たらした食紅をイメージした。少しすれば淡いピンク色になり、白さに飲み込まれていく。ささやかな患者への気配りも、時として組織の論理の前では無力なのだ。

 今回の入院で幸いだったのは、「この人は本気で働いている、プロだ」と感心する看護師に1人だけ会えたことだ。質問にかけてはプロであるはずの私が尋ねる以上のことに先回りして答えを用意し、関係者との調整を済ませている。

「なぜあなただけ違うのですか」。看護師は何十人もいるのに不思議で、入院最終日の今月10日、尋ねてみた。「何かやったら患者さんがどう思うか。想像力ですかね」と控えめな答えが返ってきた。

 患者のためを思うからこそ、先々どうなるかを予測し、一番いい方法を考える。堅苦しい言葉で言えば「目的合理性」だ。ルーチン・ワークをこなす、というそぶりがまるで見えない。そこが新鮮に感じられた。

 さて、新年といえば新しいカレンダーがつきものだ。今回は急な入院だったため、病室にかけるものを用意する暇はなかった。代わりに眺めたのが、政治記者が言うところの「カレンダー」だ。

 憲法改正をめぐり自民党がどんなスケジュールを描いているか。今月の通常国会召集から2021年10月の衆院議員の任期満了まで4年間の予定表が5日の政治記事に添えられていた。

 競技場で、街頭で、空港で、白地に赤い丸を染め上げた小旗がうち振られる東京五輪。それが催される2020年は「安倍首相が目指す改正憲法施行の年」と表にある。

「東京五輪は見られそうなの?」「難しいんじゃないですかね」と閣僚のひとりと話したことを思い出しつつ、想像する。

 いったい自分は予定表のどのあたりまで目にすることになるのだろう?

 そしてもうひとつ疑問がわく。改正論議に関わる与野党の国会議員は、先ほど紹介した看護師のように先々を考えて動くプロかどうか、ということだ。

プロならば、改正をめぐり賛否どちらにせよ、目標から逆算し、いまなすべきことをしているはずだ。たとえば、今ごろ彼らがはしごしている数多くの新年会。そこで語る内容、有権者との接し方一つとっても、国民投票で有権者が果たす役割を考えれば、前年や前々年と同じになるわけがない。

 想像してごらん、と呼びかけるジョン・レノンの「イマジン」にこんな替え歌がある。といっても耳にしたことがあるのはサビだけだ。たぶん福島時代の同僚の適当な鼻歌だったのだろう。

「暇人(ひまじん)。オール・ザ・ピープル」

 あまりの駄洒落に脱力するほかない。だが病気になり、以前よりも命の限りを意識するようになると、こんな歌にも時間の無駄遣いへのちょっとした怒りが伴うようになった。

 どれほど本気でものごとに取り組もうとしているのかが見えない政治家、医療者。一生懸命かもしれないけれども、愛読者の耳に心地よい言葉を伝えるだけで、それ以外の人たちの心を本気で揺さぶろうとしているようには見えないメディア。どいつもこいつもルーチン・ワークを繰り返して大切な時間をつぶす暇人どもめ――。まあ、そんな感覚だ。

 いささか感情的になるにはわけがある。今月7日、一人のがん患者の女性がなくなった。ウイッグを取り上げた私のコラムへの感想をフェイスブックで書いてくださってから1カ月ほどしかたっていない。

 私の目の前にはまだ、いろいろなことを書き込んでいけるまっさらなカレンダーがある。

 いま自分は本気で生きているか。足元と先々を見つめつつ、今年も問い続けたい。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年1月13日掲載)

少しでもお正月気分をと、病院で出された小さな「おせち」の折り詰め

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