難治がんの記者が大事にするコラム執筆の3つの流儀

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は、「執筆の流儀」について。

【執筆の流儀で例に挙げたコラムはこちら】

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 他人の原稿を読んでもまずほめない先輩記者がいる。私にとっては、病気で何も書けなかった一昨年春に「お前はいつか表現したくなる」と予言めいたことばで、この連載へとつながるコラムを書く気にさせてくれた恩人だが、思えばこれまで一度も文章をほめられたことがない。

 それが先々週、容体が急変した翌日にいきなり病室に現れたと思ったら「最近、コラム、調子いいな」「前よりも文章がうまくなった」と言い、ついには「どうやってコラムを書いているのか、後輩のためにそれをコラムにしてくれ」とまでおっしゃる。気味が悪くなるほどのほめように、まだかすれ声の私は酸素マスク越しに「そのうちバランスを取ろうとして悪口を言い出すに違いないから、もう帰ってください」と半ば本気で頼み込み、お引き取り願った。

 職業柄、相手の言葉をうのみにするほどお人よしではない。真に受けて依頼に応じたら、サッカーのオフサイドトラップのようにさあっと引くのでは、との疑いは消えない。「お前に本気でそんなことを頼むはずないだろ」――。十分に考えられる話だ。

 それでも、毎週の連載が1年3カ月にもなり、自分なりの流儀ができてきた。ここは不備を見直すチャンスととらえ、書き方をコラムに、との先輩の要求に応じることにした。

 参考にするコラムは「『もう食事はとれない』そう告げられた難治がん記者の心の支え『カレーは裏切らない』だ。

 ストーリーはざっと以下の通りだ。

・「あなたは生涯、食事は取れない」と私は先日、医師から言われた。
・いつかものを食べたくなったらどうするだろう? 飲食店に外出できる場合、できない場合、配偶者が調理する場合は?
・我が家には「カレーは裏切らない」という格言がある。「食」の喜びを求めたとき、心を込めて作ったルーは期待に応えてくれるだろう。

書くときに私が何を頭に置いているのか。以下、3点挙げる。

■(1)書き出すときに着地点は気にしない

 体力テストに「立ち幅跳び」という種目がある。両足をそろえて助走をつけずにぴょんと飛ぶ、あれがコラムへの私のイメージだ。

跳躍:どんなエピソードで切り出し読者を引きこむか
着地:どのように締め、読者に余韻を残すか

 驚く方が多いだろうが、私は着地点を決めず、いきなりエピソードから書き出すことが多い。読者に知らせたいのが主張よりも最近のできごと、という場合が少なくないからだ。あとは走り幅跳び選手のようにあっちこっちの話題へと手足をばたつかせ、着地する。

 読者にわかりにくいのは承知で一見関係なさそうな話をつなげ、最後の「。」にたどり着く。落語家がお客さんからお題を3つもらって一つにする三題ばなしのような「綱渡り」が楽しくて仕方ないのだ。

 とはいえ、書き進んでも着地点が見いだせないと、パラシュートが開かないまま地面が近づいてくるように選択肢が狭まってくる。思ってもないことを「これが読者に伝えたいことです」とは書けないし、「書かずに死ねるか!」とタイトルでうたっておきながら「読者に伝えたいことは未定です」というのもどうか、という気がする。

 当面、綱渡りの楽しみは封印だろうか。

■(2)文章には救いを

 エピソードは読者に身近で、驚きのあるものが望ましい。「もう食事をできないなんて、大変だ」。そう読者が筆者と同じ視線に立ってくれれば、自分だったらどうするだろう、という関心で引っ張れるからだ。

 しかし、私の日々は「容体急変」に「緊急入院」と落ち着かない。驚きばかり並べ立てていくと「えげつなさ比べ」になりかねない。そこで求められるのが「救い」だ。希望、バランス感覚と呼んでもいい。たとえば、参考例に挙げたコラムで、中盤以降でじょじょに希望がわいてくる作りにしたのもそれだ。

■(3)思うことを洗いざらい書き出しながら考える

 たとえば1人の政治家がいま何を考えている(かつて考えていた)か、取り上げるとする。「ああでもない、こうでもない」と頭に浮かんだことを書くことではじめて気づく点もある。

瓶の栓が抜けたように一通り吐き出し、いったん着陸してしまえば作業は終わったようなもの。そう自分を励ましつつ、文章が一つのストーリーとして流れているか、見直していく。

 書いて1、2日すると、まるで他人の文章のように映るから不思議だ。ダブりを削ったり、ストーリーを大改造したりと、大胆に手を入れていく。「例の先輩記者ならばかくや」と想像するほどだ。

 さて、そのご本人の求めに応えて、執筆の流儀をここまでに三つ挙げた。並べればきりがないが、どこまで求められているかがわからない。へそ曲がりゆえ「うまいコラムの書き方」というリクエストに悪文で返すのも面白い。ここでブッツリ、「着地」することにする。空中で体を反転させて着地する姿はいかにも苦しまぎれに見えるだろうが、けっきょくこここそが書きたかった、予定通りの着地点なのだ。

 あれは入社後のいつ頃だろうか。高校野球の地方大会に出場する母校の応援で、東京都内の球場に出かけた。炎天下で素振りを繰り返す1人の選手と点差を見て「次の打席が高校最後になるかもしれない」と思った瞬間、あることに気づいた。

 彼がどれだけ熱心にバットを振っても、左右できるのはおそらく次の打席の出来まで。この試合で彼に巡ってくる打席数が大幅に増えることはない。

 一方、自分たち新聞記者はどうか。何かについて「原稿を書こう」とバットを振りにいけば、自分で打席、打点を増やせる。それなのに、いつの間にか紙面を記事で「埋める」ことに汲々となり、書こうとする意欲が乏しくなってはいないか――と。

 あまり書かない理由を、文章が下手だから、という後輩記者の声も耳にしたことがある。

 もちろん「文章の書き方」は記者の関心事だが、それよりもはるかに彼らに身につけてほしいことが、私にはある。たとえ文章が下手でも「これは書かなくてはいけない」と、どんどんバットを振りにいくような問題意識だ。そのためにはどうしたらいいか。私自身、知りたい。

※この連載が書籍になることが決まりました。その作業のため、今後は事前の告知なく連載をお休みする場合があります。ご了承ください。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年12月22日掲載)

2018年11月10日に公開したコラム、「『もう食事はとれない』そう告げられた難治がん記者の心の支え『カレーは裏切らない』」

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