「難治がん」の記者 7年前“赤坂の夜”の問いかけ「政治は被災者に応えているか」

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。45歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は政治記者として”一線を越えた”3.11を振り返る。

【レントゲン撮影から車椅子で戻った筆者】

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 自分が太々しいことはよくわかっている。それでも動脈瘤が破裂せずに済んだ私を「悪運が強い」と入院先で若い医師が言った時は、夫婦そろって笑い声を上げてしまった。単に「運が良かった」と言えばいいのに。

 確かに不幸中の幸いではあった。先月20日未明に腹が痛み、緊急入院していなければ、3センチもの大きさに育った動脈瘤が見つかることはなかった。

 なにしろ、血管にステントを入れる処置が終わった途端に医師たちから「よし!」と歓声が上がるのが聞こえたほど難しく、危ない状態だった。家で破裂していたらと考えるだけで、恐ろしい。

  ◇
 これは私たち夫婦にとっては一大事だけれど、関わるのは私1人の生命に過ぎない。

 ここからは入院前の予定通り、1万8千人超の死者、行方不明者を出した「あの日」に戻りたい。

 2011年3月11日夕。その日起きた東日本大震災への国会の対応をめぐり、民主、自民両党の国会対策委員長による会談がセットされた。

 当時は参院で野党の議席数が与党を上回り、法案成立の成否を握る「ねじれ国会」。野党は発生後ほどなく協力の意向を与党に伝えたが、私は「また非難合戦に逆戻りするのでは」と疑っていた。ふだんならば成り行きを取材して原稿を書くだけだが、今は有事だ、と思った。記事で訴えるという政治記者の一線はある。だがまずは政治休戦をだめ押しすることが大切だ、と気分を高ぶらせた――ことまでは前々回に書いた。

 ここで場面は、そのために一計を案じた衆院2階の廊下に戻る。周りでは各社の記者が目の前の民主党国対の部屋で国対委員長会談が終わるのを待っている。そのうち、めぼしいメンツに腹案を投げかけてみた。

「会談が終わったら両党の委員長にここで並んで内容をブリーフしてもらおう」

 狙いはこういうことだ。会談のブリーフはふつう双方が自らの担当記者に対してバラバラにする慣例になっている。たとえば自民党幹部ならば会談後、国会内にある党の部屋に戻り、番記者相手にやる。ところが、これだと合意点などをめぐる双方の説明のニュアンスが食い違っていてもその場でただせず、新たな火種が生じかねない。これに対し、両者が並んでやればお互いの目があるからそうしたことを防げる、というわけだ。

 とはいえしょせんはブリーフだ。やり方にこだわる記者はまずいない。その時もとくに反対意見はなく、まあそれでいいか、という流れになった。

「それでは両委員長、こちらでお願いします」

 午後5時5分。会談を終えた民主党の安住淳さん、自民党の逢沢一郎さんは廊下に出てくると、記者団に促されるままカメラの前に並んだ。

「しばらくは政治休戦と考えていいか」。祈るような気持ちで私が念押しすると、逢沢さんは「どれほどの被害か想像を絶する。スピード感をもって対応しなくてはならない。野党としても与党、政府と協力してこれにあたる」と「休戦」を明言した。

 ライトに照らされながら話し続ける2人を前に、体の力が抜けた。「これが政治の分水嶺になるかもしれない」

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 30日に私はもう少し踏み込んだ。復旧・復興関連の法案審議でキーマンになると踏んだ与野党の別の2人に声をかけ、「腹合わせ」を仕掛けたのだ。

 2人とは、民主党の中根康浩さんと自民党の古川禎久さん。審議の「主戦場」になるとみられた衆院災害対策特別委員会(災害特)の筆頭理事で、私は別の取材で2人をよく知っていた。

 その夜、国会に近い東京・赤坂の飲食店に集まった。それぞれ知らない間柄ではない。率直なやりとりになった。

 熱血漢の古川さんが「災害特は与野党対決ではなく、立法府が行政府に見解を質し、ものを言っていく場にしたい。党議拘束を外そう」と持論を語れば、与野党協力を進めたい中根さんも「(与党が)4Kをまとめて撤回すれば野党も何も言えないでしょ」とにこやかに尋ねる。

4Kとは民主党の政権公約で、野党が「バラマキだ」と批判した子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、(農家)戸別所得補償の頭文字からきた通称だ。

 あえて私が働きかけるまでもなかった、と思った。「2人に任せておけば大丈夫だ」。夜空の下、清々しい気持ちで別れた。

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 いま思えば、私の見通しは甘かった。とっくに政治には絶望したつもりだったが、まだどこかで期待している部分があったのだろう。私が勇み足をしてまで実現しようとした政治休戦は一夜の夢に終わった。

 災害特が主戦場にならなかったのは、法案を迅速に処理するために別の特別委員会が設けられた結果だから仕方がない。

 しかし、非難合戦の再開の早さは予想をはるかに越えていた。自民党の谷垣禎一総裁は翌4月、「(震災への)対応の遅さは、日本の国際的な信用な失墜を招いている」と、首相に退陣を迫った。菅政権は6月に提出された内閣不信任案こそ否決したものの、その秋には退場。続く野田政権が民主党最後の政権となった。

  ◇
 震災から7年が経過した。この間に私は福島で原発事故の傷跡を目の当たりにした。与野党のかみ合った議論が見られない国会の姿に、往時を思い出す。どちらにも理屈はあるだろう。しかし、その姿は震災や2年前の熊本地震で被災した人たちに「ほったらかしにされている」と思わせてはいないか――。

 この回を閉じるにあたり、時計の針をあの赤坂の夜まで巻き戻したい。

 グツグツと煮えたぎる鍋を前に、古川さんは私たち2人に知り合いのエピソードを聞かせてくれた。

 その社長は被災地でボランティアをしようと、車に資材を積んで宮城県石巻市に向かった。「ありがたいが、あっちにもっと困っている人がいる」と言われて山奥に車を走らせたると、また「あっちにもっと困っている人がいる」と言われる。資材を届けるまで3回も移動しなければならなかった、という話だった。

「まだ日本人は捨てたもんじゃない」。なかば自らに問いただすように古川さんが絞り出した一言が今も胸に刺さる。

「けど、そういう人たちの思いに応えることを政治はやっているのか?」

(肩書きや党名はいずれも当時)

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年5月5日掲載)

レントゲン撮影から車椅子で戻った筆者。食事は流動食、三分がゆを経て現在は五分がゆまで回復=1日、東京都内の病院(撮影/東岡徹)

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