「難治がん」の記者 富岡八幡宮で働いた過去と「家内安全」のお札に思うこと

働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。

【事件のあった富岡八幡宮はこちら】

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 東京の富岡八幡宮で痛ましい事件が起きた。

 大学に入ってから卒業するまで、私は毎年この神社で助勤(アルバイト)として年を越していた。

 1年目は本殿右奥の横綱力士碑を通り過ぎた先にあるお焚(た)き上げ所で半纏(はんてん)を着て参拝客から受け取った古いお札などを燃やした。

 2年目からは緑色の袴をつけ、本殿前の白い幕で覆われた受け付け所で、お札を求める参拝客に対応した。

 お札には大中小と3種類あり、大きさによって初穂料が変わる。大きいほうは朱筆で書き入れるお願い事を二つまで選べる。そんなことをストーブのわきで説明した。

「病気平癒」「交通安全」「入学祈願」「厄除」「社運隆昌」「必勝祈願」。今のことは分からないが、そのころ不思議だったのはわりと抽象的な「家内安全」を選ぶ人が多かったことだ。学生なりにこう考えた。病気だろうと受験だろうと、どこかに陰りがあれば「家内安全」とはいかなくなる。だからそれを願えば、ほかもすべて神様にお願いしたことになるのではないか――。

 けっきょく本職の人には確かめなかった。だが社会人になり、家庭を持った今、それほど的外れではなかった気がしている。

 今回の事件では、宮司である姉に元宮司の弟が切りつけて殺害し、自殺したとされる。二人とも私は面識がないし、確執を耳にすることもなかっただけに驚いた。多くの人々が求めながらも、ほんの小さな穴から崩壊する家内安全。いろいろなお願い事が織りなす「集大成」ゆえのもろさを、事件は教えてくれる。

  ◇
 世の中が1年単位でめぐるとすれば、私の日常は抗がん剤の点滴を受ける10日サイクルで回っている。

 事件から一夜明けた8日、都内の病院で診察を受けた。

 その前の10日間に何度も熱が上がったことを主治医に伝えると、「今日は、点滴はどうされますか」と聞かれた。「できるならやります」と答えた。

「胆管炎で出ている熱だとすると『命がけのお熱』ということになります。そのリスクをお伝えした上で、ご希望でしたら……」と念を押されたが「やります」と応じた。

 前にも似たようなことを言われたことがあり、「ああ、命ね」と感度が鈍っているせいもある。

 だが経験上、主治医が本気で心配しているときはもう少し強いトーンで点滴見送りを促してくるものだ。だから、すぐ別の話題に移った時は安心した。本音は言葉づかいよりも、こうした態度に表れる。

 それよりも難しい判断を迫られたのは、夜に40.2度の熱が出てからだ。

 翌日の午前中に大学の先輩たちが見舞いに来ることになっている。さて、熱のことをいつ、どんなトーンで伝えるか。

 いま伝えれば「無理する必要はない。日を改めよう」と言われるだろう。だが、こちらとすれば、日にちを遅らせたら体調がよくなるという保証はない。30分で打ち切るにしても会えるうちに会っておきたい。だが体調がもっと悪くなったとき、連絡せずに引っ張って「お会いできません」と門前払いするわけにもいかない。短時間でも会えないか、翌朝の熱の下がり具合を見て考えることにしよう。

 解熱剤の効果もむなしく、9日朝も体温計は40度を示した。ここでまた、新たな問題が浮上した。病院への連絡をどうするかだ。病院との間では、38度台後半が2日続いたら連絡することになっている。

 しかし、土曜日であるこの日に入院しても、診察は週明けで、できるのは自宅と同じように解熱剤と抗生物質を飲むことだけだ。いたずらに入院期間を長引かせたくはない。それに、熱が上がってまだ12時間しかたっていない。「連絡しないでいいか」としきりに気にする配偶者に、夕方まで熱が下がらなければ電話しよう、と伝えた。

 けっきょく、連絡せずに済んだ。見舞いまであと1時間というところで激しくもどし、栓が抜けたように汗が出始めた。「もう大丈夫だ」と確信した。先輩たちが現れたときはまだ熱が高かった。だが熱のことを伝え、思い出話や病気のことを1時間ほど話している間に、すっかりよくなった。見送ってから体温を計ると、36.8度。1時間で3度も下がったのだ。「よかった」。配偶者が泣き笑いのような顔になった。


・「命がけの熱」が出ることを覚悟して点滴をするか。
・高熱をいつ先輩たちに伝えるか。
・病院に連絡するか。

 2日間で迫られた3つの判断のうち、一番難しかったのは2つ目の「高熱をいつ伝えるか」だった。

 1つ目の「点滴をするか」でないことは、読者には意外かもしれない。「命云々と言われたら、もっと動揺するのでは」と考える方が多いのではないか。

 以前、お見舞いにきた先輩に、生存率がどうこうとふつうの調子で話していたら「野上はもう生きることをあきらめたのか?」と言われ、驚いたことがある。まなじりを決して闘病するというイメージとのギャップがあったのだろう。

 そのあたりのことはこのコラムのタイトルにも表れている。

 最初は朝日新聞デジタルで掲載していたときにつけてもらった「がんと闘う記者」をなぞり、「『難治がん』と闘う記者」となっていた。途中から「闘う」を除き、今はただ「『難治がん』の記者」となっている。

 理由は簡単だ。私には自分が「病気」と闘っているという実感がないからだ。あるのは、病気にならなければ生じなかったものごとに一つ一つ対処している感覚だ。そこにはもちろん体のつらさも含まれるが、病気を挟んで人と付き合うわずらわしさや、面倒をかけている申し訳なさなど、病気以外の要素がとても大きい。

 そのあたりもひっくるめて「闘病」というのではないか、と思う人もいるだろう。そうかもしれない。ただ、頭の中をどれぐらい病気や治療が占めているかと考えるとき、がん患者のレンズ越しに世の中を見て、日々考えていることや感じていることをつづるこのコラムが「闘病記」といわれると、なんだかなあ、という気がする。

 国民の2人に1人ががんになる時代といわれる。もし、似たような考え方をする人に会えたら「生きることをあきらめているとか、がん患者らしい心の葛藤を押し隠しているとか誤解されて、苦労したことはありませんか」と聞いてみたい。

  ◇
 ちなみに私は、病気になってから2度、富岡八幡宮に参拝した。家内安全は大丈夫だろうと思い、お札には「病気平癒」と書いてもらった。

 家内安全はお願いごとの集大成、ゴールでもあるけれど、ほかの願いをかなえるための出発点でもあるのかもしれない。

 それが、病気にならなければ生じなかったものごとに夫婦二人で立ち向かっている今、思うことだ。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2017年12月16日掲載)

事件のあった富岡八幡宮(c)朝日新聞社

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