「難治がん」の記者が貴乃花の白星を祈った夜… 「遺体なき殺人」特ダネの裏話

働き盛りの45歳男性。がんの疑いを指摘された朝日新聞記者の野上祐さんは、手術後、厳しい結果を医師から告げられる。抗がん剤治療を受けながら闘病中。

【千代の富士と貴乃花の最後の取り組みはこちら】

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 あのクワッとした顔で迫ってくるのだから、凄(すご)みがある。

 十数年以上前のある晩、東京・紀尾井町のホテルニューオータニの玄関付近で他社の政治部の記者とたむろしていると、目の前を家族づれの貴乃花親方が通り過ぎた。おっ、貴乃花だ、と記者たちが見たことに気づいた親方は、こちらにやってきて、文句を言いだした。なぜこんなところまで追いかけてくるのか、と。

 いや、私たちは政治家の会合が終わるのを待っているだけです。

 そう伝えると、納得して家族のもとに戻っていった。

 まったく、マスコミがみんな自分を追いかけているなんて意識し過ぎだよな。大きな背中を見送ってから他の記者としゃべった。元横綱日馬富士による暴行問題に絡み、報道陣との間に壁を設け、緊張感を漂わせているようにみえる現在の姿に重なる。

 私にはその数年前、同い年である彼の白星を必死で願った一夜があった。事件取材をしていたころのそれを思い出すと、今も懐かしさがこみ上げる。

  ◇
 四課担。それは暴力団事件を担当する捜査四課を取材する記者の呼び名である。まだ政治部で働き出す前、名古屋社会部で四課担をしていた2年弱は私にとってささやかな誇りだ。

 内輪の理屈になるが、事件記者の花形といえば、殺人など派手な強行犯を追いかける「一課担」と、汚職など社会的影響が大きい知能犯を追う「二課担」が挙げられる。それに対し、こちらはプロによる強行犯と知能犯を両方相手にしていることにプライドを持っていた。

 さらに愛知県警の場合、よそでは行政を担うことが多い暴力団対策課も事件捜査で四課と競っていた。それぞれの捜査関係者と接触するために朝晩、各地に出没し、昼間は県警庁舎内をうろついて警戒する。そんな日々だった。

忘れられないのが、未明に自宅のファクスが鳴る時の絶望感だ。

「プルルッ。ピー、ガガガガ……」と鳴り出す前になぜか一瞬、音のない周囲がさらにシンと静まり返る。ファクスからはき出されてくる荒い粒子の他社の特ダネのコピーを見て、このところの努力が無駄になったと思い知らされる。

 私は事件記者としても今ひとつだった。それでも特ダネをいくつか取れたのは、それによって将来が開けるといったことよりも、この音を聞くまいと付け焼き刃の努力を重ねたせいだろう。

 そんな四課担のころ、一つの情報が飛び込んできた。

 ある暴力団幹部殺害の罪に問われている被告の一部が、「もう1人、殺害されている」と当局の調べに供述している、というのだ。

 ところがやっかいなことに、最大の証拠である遺体がないという。詳しくいうと、いったん遺体を空き地に埋めたあと、そこに住宅が建てられると知って掘り返し、バラバラにちぎっていくつかの袋に詰め替え、別の場所に運んで燃やしたと供述している、という。

 警察はいぶかった。

 確かに供述は具体的だ。だが、刑が重くなる可能性が大きいのに、なぜ話しはじめたのか。反省したのならばいいが、途中で供述をひるがえすつもりではないか。そうなれば、元の殺人の立証にも悪影響を及ぼしかねない。決定的な物証が必要だ。

 警察は小さなかけらに望みをかけた。警察官が供述に基づき、空き地の土をふるいにかけたところ、遺体をちぎったときに散らばった骨片とみられるものが出てきたのだ。

 それを被害者のものと特定できるか。警察庁科学警察研究所のDNA鑑定がカギを握ることになった。

 さて大変なことになった。情報をつかんだ瞬間、喜びよりも不安に襲われた。「遺体なき殺人」は珍しいからニュース性がある。他社よりも早く書ければ特ダネだ。だがいま書いても、その後の鑑定結果によっては立件されないかもしれない。関係者から名誉毀損と訴えられた時、「供述したこと自体は事実だ」と反論してどれだけ通じるだろうか。

おそらく他社はまだ気づいていないが、鑑定結果を待っているうちに察知して、デリケートな事情を知らずに中途半端に書き飛ばしてくるかもしれない。その瞬間、私の特ダネはなくなる。しかも、その報道が後から鑑定結果で裏づけられれば、完敗である。情報を抱え込んだまま特ダネにできず、みすみす他社の後塵(こうじん)を拝する。無能の烙印を押されても仕方ない大失態だ。

 ふと、捜査幹部と交渉できないかという考えが頭をよぎった。自分はこれだけ知っている。だが事件がつぶれては困るから、今は書かないと約束する。その代わりにもう大丈夫という時がきたらヒントをくれないか――。だが、すぐにあきらめた。幹部がとぼける顔が目に浮かぶようだった。

 もう一つの殺人事件なんて聞いたことがない。書きたければ書けばいい。ただ、仮にそんなものがあったとして、あなたの記事で逮捕できなくなったり、あなたが訴えられたりしたら、それはあなたの責任だ。

 私に残されているのは、鑑定結果が出たタイミングとその中身を素早くつかむ、それだけだった。他社が気づかないことを願いながら、記事にするのを我慢する。書ける範囲で原稿を用意しておき、警察の動きに神経を尖らせる。そんな日々が数カ月は続いただろうか。

 Xデーは突然、訪れた。

 ある金曜日の夕方。いつものように県警庁舎をぶらついていると、1人の幹部が部下から報告を受けるところに居合わせた。内容は聞こえない。何度も見てきた風景だ。

 ただ、この日は少し様子が違った。報告前に部下がソファに座ったこちらを振り返り、チラッと見た。私の目を気にしている、と感じた。

 老眼気味の幹部はふだん椅子にもたれて「前へならえ」のように両手を伸ばし、書類を目から離して読む癖がある。まゆはゆったり「八の字」型だ。

 ところが、その時は報告書を受け取るや、ぐっと机に突っ伏すように身を乗り出して読みだした。「逆八の字」とでもいうのか、まゆ尻を釣り上げて目を見開き、ふだんと正反対に顔を書類に近づけた。
 

待ちかねた鑑定結果だとピンときた――と書ければ格好いいのだが、そこまで勘がよくはなかった。

 なのに夜が明け、土曜から日曜へと日付が変わっても、心のざわめきが止まらない。それまでになかったことである。あの幹部の姿に心が反応している、と気づいた。

 ようやく確認に動いたのは、確か日曜の夜だったと思う。

 いい結果が出たようですね。それなりに確信を持って取材先に迫ると、「被害者の遺体と特定されたわけではない。それと矛盾はない、というだけだ」と返ってきた。そう書くと、ごまかされたと感じる方がいるかもしれない。だがDNA鑑定とはこうしたものなのだ。取材の蓄積と突き合わせると、これで十分だった。

「行ける」。上司に報告し、用意していた原稿を書き直して仕上げた。あの報告の場面から丸2日が経っていた。

 さて、ここでようやく貴乃花が登場する。当時は2003年1月場所の真っ最中。調子のよくない彼がこの日敗れて即引退となれば、名古屋本社版の第1社会面右上に載るトップ、いわゆる「アタマ」がそちらになるのは自然な流れだった。

 記者とすれば、まゆ毛に反応できるところまで神経を研ぎ澄ませてつかんだ特ダネはアタマにしたい。だが世間の感覚からすれば「殺し」だろうが「シャブ(覚せい剤)」だろうが、暴力団員が悪いことをするのは当たり前のこと。いくら「遺体なき殺人」が珍しかろうと、貴乃花に勝てるはずがない。

 必死の応援もむなしく、貴乃花ははるかに格下の力士に寄り切られた。そのまま翌月曜の午後に記者会見し、引退を表明した。

 私の記事が載ったのは、引退をめぐる騒ぎが一段落した火曜。念願のアタマだった。他社が鈍感だったことに感謝した。

 あの日、不純な動機ながらも「今日だけは絶対に勝ってくれ」と心から声援を送った記者が名古屋にいたことを、大横綱が知るはずもない。そして、情報の出どころ探しに血眼になったに違いない例の幹部もまた、口を開かなかった自分のまゆ毛がヒントを与えた「犯人」とは気づいていないのだった。

さて、今回はここまで「がん」がまったく出てこない。話を閉じるには、貴乃花と深い因縁のあるもう1人の大横綱にお出まし願わなければならない。

「ウルフ」こと千代の富士。1991年、頭角を現してきた当時18歳の貴乃花(当時は貴花田)に敗れたのがきっかけで「体力の限界」の言葉を残して引退し、昨年、すい臓がんで世を去った。61歳だった。

 私は彼の断髪式にも出たほどのファンだ。貴乃花に続いて今度はすい臓がんに敗れたと知ったときは、心の中でつぶやいた。「千代の富士がかなわない相手に勝てるわけないよな」

 安倍晋三首相の父である晋太郎・元外相。ミュージシャンのムッシュかまやつさん。アップル創業者のスティーブ・ジョブズさん。ジャーナリストの黒田清さん。チェコの元体操選手ベラ・チャスラフスカさん。いずれもすい臓がんで亡くなったとされる方々だ。

 たとえ治療によって死期を遅らせ、死因を変えることができても、死そのものは避けられない。人間に選べるのは、死に敗れるまでをどう生きるかということだけだ。

 名古屋時代の「遺体なき殺人」を振り返ると、被害者の人物像も殺害までのいきさつも、2人目の殺人容疑で再逮捕された暴力団関係者が死刑判決を言い渡されたかどうかも覚えていない。今回、過去記事を調べてやっと、無期懲役だったことがわかったぐらいだ。死に対してあきれるほど無頓着だったというほかない。

 新聞の地方版には地元の人々の葬儀・告別式の情報を伝える「お悔やみ欄」がある。福島総局の次長(デスク)だった時はアシスタントが用意した原稿を淡々と処理してきた。

 膨大な「死」が私の手を通っていった。どれひとつ同じもののない人生の終幕である。

 みなさん。
 本当にお疲れさまでした。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2017年12月9日掲載)

千代の富士にまわしを与えず寄り切った貴花田=91年5月(c)朝日新聞社

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