パスポート紛失! それでも予定通り帰国した難治がんの記者が、現地に留まるより「飛ぶ」ことを選んだ理由

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は入院生活の読書から思い出したパスポート紛失騒動について。

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 読まなければならない本はたくさんある。それでも入院中は、気分転換に、普段ならば手を出さない本を読んでみたくなる。

 そこで先日、あえて書名は指定せずに「自分が面白がりそうな本を買ってきて」と配偶者に頼んでみた。ある日の夕方、仕事帰りの彼女から手渡されたのは私が前から気にかけながらも買いそびれていた1冊だった。

 ヒット作を連発する売れっ子編集者、箕輪厚介氏の『死ぬこと以外かすり傷』(マガジンハウス)だ。

 書名に込められたメッセージは「挑戦で傷を負っても、死にさえしなければまた立ち上がれる」といったところだろう。それを「死ぬこと以外」どころか、もう根治しないと医者から太鼓判を押されている膵臓(すいぞう)がん患者が読むというギャップが、少し距離を置いてみると、おかしくて仕方がない。

 著者が高校時代に海外の空港でパスポートを紛失したという冒頭のエピソードに「自分と同じだ」と親近感を覚えた。家から持参していた小説、新書を後回しにして一気に読み通した。

 私は紛失した時にすでに社会人で、海外を何度か一人旅していた。しかし、日本人観光客から小銭を恵んでもらった著者のような時間はなく、予定通りの便で帰国できたのは私が誇る数少ない「武勇伝」。いま思えば、がんへの対応につながる1本の線がくっきりとみえる。

 紛失したのは2006年夏。州丸ごと自然公園のような米中西部の片田舎にある小さな空港でのことだった。

 現地に留学中だった結婚前の配偶者に見送られた帰り道。セキュリティーを通過して1分か、2分か、さほど時間がたたないうちに、職員に示したばかりのパスポートがないのに気づいた。飛行機に乗り込む直前に念のため各ポケットをまさぐったところ、なかったのだ。

しゃがみ込んで荷物を引っかき回す私の目と鼻の先で、小ぶりな飛行機がドアを開けて私を待ち受けている。

 私は決断を迫られた。パスポートがないままこの飛行機でシアトルへ飛ぶか。それとも、パスポートがまだ転がっている可能性が高いこの土地に残るか――。

 迷っている時間はない。

 飛ぶ、と決断した。

 普通ならば、彼女のサポートが期待できるこの土地を離れないのかもしれない。

 しかし、これで飛ばなければ、休み明けに取材する予定になっている自民党派閥の会合には間に合わない。シアトルの日本領事館ですみやかに帰国のための書類を発行してもらい、予定通りの便で帰国する。可能性が小さくても、ギリギリの道にかけることにした。

 乗務員に紛失を告げると、狭い機内に旅客向けのアナウンスが流れた。「日本人の乗客がパスポートを紛失した。身の回りに紛れていないか、確かめてください」といったところだ。

足元をのぞき込んでゴソゴソと捜してくれる旅客たちに申し訳ない思いがした。すられて空港外に持ち出されたか、目につかないところに落としたか、いずれにせよ機内にはない気がする。別人を装ったすりが「ここにありました」と名乗り出るはずもない。

 私に同情した日本人の女性が旅客の中にいて、旅行ガイド『地球の歩き方』に出ていた領事館の電話番号を親切に教えてくれた。

 着陸。ここから、「あの時ぐらい頭が回転すれば何でもできる」と、のちのち知り合いに幾度ともなく誇って聞かせる、ささやかな私の奮闘が始まる。

 帰国のための書類を手に入れるのにまずいるのは、パスポートを紛失したという証明書だ。空港内にある警察のオフィスを探し当て、体格のいい男のお巡りさんに事情を説明し、もろもろを英語で用紙に書き込んだ。

 ここが済んだらタクシーで領事館へ。確かそれは週末で、わざわざ出てきてくれたのだろう相手から「写真はありますか」と聞かれた。なければ週明けに写真店が開くのを待たなければならず、一巻の終わり。必死で探すと、いささか古ぼけたものが手帳に挟まっていた。

書類発行の手続きは済んだものの、これで一安心とはいかない。もう米国を離れるからと米ドルをほぼ使い切っていたのだ。帰りのタクシー代を支払うときに「クレジットカードを使える」「使えない」でもめてもやはり一巻の終わりだ。領事館の外に出て「exchange」の看板、つまり両替できる場所を見つけ出し、ようやく、なんとか、それでも予定通りの成田便のシートに収まった。

 帰国後、自民党派閥の会合を取材した。私が書いた記事は政治面3段(633字)。「帰国できません」と同僚に急きょカバーをお願いするのは気が引けるボリュームだった。

  ◇
 人は、病気その他のピンチが目の前に立ちはだかった時、これまで体験したことがあるやり方でしか立ち向かえない、と書いたことがある。逆に言うと、相手によってやり方を変えようとしてもまずできないのだ、と。

 パスポート紛失では、けっきょくはシアトルに移って書類を発行する必要があると踏み、小さな飛行機に乗ることを決めた。いっぽう、がんでは、精密検査中から「自分は膵臓(すいぞう)がんだろう」という最悪の展開を頭から追い出さず、むしろ織り込むようにした。のちのち、ショックを受けずに治療を始められるようにするためだ。

 そう考えると、これまで生きてきた私が大切な場面ではいつも目の前から先のことに目を向け、「飛ぶ」を選んできたことがはっきりする。

 入院は今回で13回目となる。これまではたいてい、許可が下りたら「できるだけ歩いて」と言われたものだが、今回はちょっと様子が違う。歩くと足に血が集まり、内蔵のほうにいく血が少なくなるから、歩くのもちょっと考えながら……とのことだ。

 といって始終、ベッドに横になっていれば、すでに食事の全面禁止も重なってやせ衰えた太ももから全身へと衰えは広がっていく。目線を全身に向ければ、遠からず寝たきりになることへの心配も持ち上がる。「もっと歩いておけばよかったのに」と悔やんでも遅い。

 だから私は、配偶者に付き添われ、サンダルを突っかけた足の裏を床につける。病室を出て廊下へとつま先から踏み出す。よちよちとした足取りと、確固たる決意で、私は今日もまた「飛ぶ」のだ。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年10月13日掲載)

愛用のサンダル、水筒と同じように、どの入院先にもついてくる

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