難治がんの記者が“資金受領”報道の細野豪志氏に苦言「今度は自分が励ます側だ」と思ったのに…

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は5千万円の資金受領について報道された、細野豪志氏について。

【記者に説明する細野豪志元環境相】

*  *  *
 幅1、2メートルの細い道を奥に入ると、古びた木造住宅が建っていた。玄関先で民主党ののぼり旗が揺れる。白地に赤いロゴがそこだけ鮮やかだった。

 衆院選静岡7区から立候補する。1999年10月にそう表明し、静岡県三島市内に移り住んだ細野豪志氏の家を初めて訪ねたときのことだ。「足もデカイが、夢もデカイ」のキャッチフレーズ通り、上背も肩幅もある彼と、年上の奥さん、生後間もない娘さんとの3人暮らし。事務所も兼ねたその部屋はいかにも手狭だった。

活動方針などを尋ね、何げなく本棚をのぞくと、1冊の本が目にとまった。

「お、『日本改造計画』」

 それは当時、政治に関心がある若者なら誰もが読んだ小沢一郎・元自民党幹事長のベストセラーだ。「マストでしょ」。当たり前のような口調で返ってきた。

 その小沢・民主党代表のもとで細野氏が役員室長となり、出世の階段を上っていくのはまだ後のことだ。そのころ彼は私より1学年上の28歳。伊豆半島という保守的な土地柄に挑む、滋賀県近江八幡市出身の落下傘候補に過ぎなかった。

 彼の伊豆半島との縁といえば、ダイビングに来たぐらい。そこを強調するほど「よそ者」に見えた。業を煮やした周りから「ほかにないのか」と問われると「娘を授かったのがおそらくその時」と口走った。「あの話はやめたほうがいいですよ」。あとでたしなめたが、必死さを感じた。

 民主党の候補者公募には当時、政界入りを目指す多くが集まった。世襲で選挙区が埋まっている自民党と違い、空白区が残っていたからだ。

久しぶりにそのころの記事を読むと、細野氏は「民主のことを『自民よりやる気がある”保守政党”』と位置づけて、保守支持層からの支援を期待している」と書いてある。

 昨秋の衆院選で彼は、保守政党を掲げた希望の党の結成メンバーとして候補者調整にあたり、安全保障政策などをめぐる「排除」騒ぎに関わった。当時を振り返れば当然と思ういっぽう、運命の皮肉も感じざるを得ない。

 彼がわずか8カ月間の短期決戦で初当選を果たしたのは、自民系が前職2人を含めて3人も立候補したことによる「漁夫の利」だった。分裂のおそろしさを肌身で知る彼が、排除による民進党系の3分裂に関わろうとは。

 当時の彼は月50万円の政党助成金が活動の命綱で、お米は支援者から贈られたもの。その貧乏話は著書『パラシューター』に詳しい。

「今回、小選挙区で当選した20代は小渕優子さんと私だけ。地盤、看板、カバンの『3バン』がある小渕さんと、どれもない自分ということで『アエラ』などで取り上げてもらえないか」

 選挙後、そんな提案を受けたのを覚えている。

  ◇
 彼に遅れること4年。2004年4月に私も永田町で働き始めた。再会したのは衆院本会議場と議員食堂の間だ。薄暗がりのソファで彼が話し込んでいるところに通りかかると、話し相手だった静岡選出の同僚議員に「地元で取材してくれた記者だ」と私を紹介した。

 もっとも私は小泉純一郎首相の総理番として政治取材を始めたばかり。かたや彼は若手の注目株だ。国会内でばったり会えば「国会はどうなるの?」などと尋ねられ、話を合わせたが、気恥ずかしさが先に立った。

 永田町で「取材」に出かけたのは一度だけだ。野田政権の後半、彼が首相の座に近づいた瞬間があった。古い知り合いがどんな表情をしているか。国会内をうろつくと、衆院の正面玄関側の階段を2階から1階に降りてくるのに出くわした。

目が合い、目礼したら、ウンとうなずき返してきた。腹を固めた感じではない。実際、それっきりだった。

 2014年春に福島総局に赴任したころ、彼が自民党的な派閥を立ち上げてメンバーに政治資金を配ると報じられた。米をもらっていた彼が金を配るとは――。

  ◇
 深い付き合いどころか、永田町に移ってからは取材相手ですらなかった。だから2016年2月19日、がんの疑いを指摘されて東京に戻ったあとに彼からメッセージが来たときは驚いた。

「病気のこと、聞きました。手術はどこでやるんですか? 術後のことも含めて、病院選びは大切です。お手伝いできることがあればと思います」

 もちろん気持ちはありがたい。だが記者として復帰を望む以上、政治家に借りは作れないからと、お断りした。

「元気になって、必ず復帰してください。永田町で待ってます」と返事があり、その後、病院に顔を出してくれた。

 その夏。私は復帰1本目となるコラムを書き、国会内で超党派の議員勉強会が開かれた。細野氏が自民党にいる私の知り合いと連絡を取り、段取りをつけたのだ。私も講師に呼ばれ、上司に許可をもらって出席した。相変わらずデカい細野氏に心の中で手を合わせた。

 希望の党をめぐる分裂騒ぎの末、細野氏は無所属議員になる。だが5月、ぽつんと議場にひとりたたずむ写真を見て、悪くない、と思った。

 前のように首相候補に挙がることは望めないだろう。だとしても1人の政治家として、LGBTや子どもをめぐる政策など、こだわりを追求すればいい。東京に戻って初めて、自分から連絡を取った。逆風にさらされている知り合いを、今度は自分が励ます側だと思ったのだ。

  ◇
 それだけに、6月27日付の朝日新聞朝刊で、金銭をめぐる不祥事を報じられたのは残念だった。「昨年10月の衆院選の期間中に、東京都内の証券会社から5千万円を受け取っていたことがわかった」との内容だ。

記事によると、昨年10月13日ごろまでに細野氏の事務所から貸し付けの依頼があったという。

 それはちょうど私のコラムに「いよいよ、正念場の戦いです。私の娘も18歳。父として、恥ずかしくない戦いをしたいと思います」と感想を送ってきた直後にあたる。

 なぜこんなに大きく報じられているのか。配偶者に聞かれ、つい言葉が荒れた。「これで細野が政治家として終わりだからだよ。もう終わりだという記事だから、大きいんだ」

 さすがにそれは、先を見通せない現時点では言いすぎだったかもしれない。記事で彼は、政治家の定番ともいえる認識の違いをあげて釈明していた。『日本改造計画』を「マストでしょ」と言っていた昔の彼ならば、口にしなかったのではないか。そこには「政治資金絡みのスキャンダル」による「国民の政治不信は議会制民主主義の根幹を揺るがすまでに高まっている」と書かれている。

 彼は最初の選挙で例の「のぼり旗」を手に、伊豆半島を若者たちと歩いて一周した。「政治家は多くを語り、聞かない」と、聞くことを目標に掲げた。それなのに、報道の翌28日、報道陣の前に姿を現した際、まだ質問が続いているのに、その場を後にしたという。なぜ質問が途切れるまで耳を傾けなかったのだろうか。

 前に彼からもらったメッセージには「まだ書かねばならないことがあるということでしょう」とあった。その「書かねばならないこと」が、彼への苦言になるとは。極めて残念だ。

 初当選から18年。政治を変えたいという彼に、すでになくなった人も含め、多くの人たちが期待した。

 彼らだったら今、何というか。一人ひとりに会い、あるいは顔を思い浮かべ、その声に耳をすませてほしい。 (出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年7月7日掲載) 

証券会社から受け取った5千万円について、記者に説明する細野豪志元環境相 (c)朝日新聞社

Follow me!