「野上は目が細い。」記者面接での男子学生の文章から見えた「記者」という仕事 難治がんの記者が振り返る

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は「記者の目」について。

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 あれほどインパクトのある書きだしを見たことはない。なにしろ、

「野上は目が細い。」

 と始まるのだ。

 まだ政治部に来て数年目のころ、入社試験の面接官をした。受験生が取材のまねごとをして「人物の紹介記事」を書くという課題があり、3人ペアの面接官の下っ端だった私が「取材先」になって質問に答えた。

 受験生の中に、まだ時間があるのに質問を打ち切った男子学生がいた。リーダー格の先輩記者がびっくりして「もういいの?」と尋ねたが、「はい、もう結構です」と落ち着いていた。

 それで彼が書いてきたのが、先ほどの「目が細い」という私の紹介記事だったというわけだ。「だけど観察は鋭い」と続いて、確かにそつがなかった。だがいかんせん、面白くなかった。

「そもそも彼は人間に関心があるのだろうか」という先輩記者に当時は「なぜそこまで」と思ったものだが、今は分かる。

 人は掘れば掘るほど新たな顔を見せる。文章力は後からでもある程度までは何とかなるものの、人への関心を周りがどうこうするのはちょっと難しい。

  ◇
 自分は丸(まる)っとした世界全体に相対しているのだ。一そろいの「目玉」、それが自分だ。

 そんないわく表現しがたいイメージが芽生えたのは、日本の中枢・永田町ではなく、伊豆半島の港町にある沼津支局にいたころだ。

 記者が十数人いる県庁所在地や、「政治」「経済」「社会」と専門ごとに分かれている本社とは違い、記者は2人だけ。担当分野はさしずめ「世の中で起きていることすべて」で、そのうち「変だ」「面白い」と感じたことがあれば取材に取りかかる日々からイメージが立ち上がってきた。

世のありように「ひっかき傷」をつけたと誇りに思っている「調査報道」が二つある。

 一つは高校入試をめぐるものだ。後に制度改正に結実するいきさつをいずれ詳しく紹介したいが、きっかけは新聞各紙に出ている公開情報を眺めていて「数字の1が並んでいるのは不自然だ」と感じたことだ。

 だが本当におかしなことが起きているのなら、何万人が何年間も見ていて気づかないはずがない。そんなおそるおそるのスタートだった。

 もう一つは、ある地方選挙を通して公職選挙法にできた「抜け穴」の背景に迫ったものだ。

 候補者の中に、ほかの選挙で陣営から違反者を出した男性がいた。立候補は合法だが、グレーな感じがする。なぜそんなことが起きるのか、地元だけ取材してもわからない。視線を過去に向け、これに関わった総務省や当時の担当閣僚に取材した結果、法律の趣旨と矛盾するこうした立候補を想定していなかったことが分かった――という話だ。

男性が当選すると、自民党の森喜朗幹事長(当時、後に首相)、民主党の羽田孜幹事長(元首相)はともに「釈然としない」と表現。「抜け穴」はしばらく注目のテーマとなった。

 この件でおそろしいのは、こうした立候補が初めてではなかったことだ。過去にも同じような例が1件あったが、その地元の記者が反応せず、それきりになっていた、というわけだ。

 見ようとしてはじめて見えるのは調査報道に限らない。休日に遊びに行った先で心温まる「暇だね」を見つけるのも同じだ。目玉が反応するかどうか。それが出発点であり、決め手なのだ。

 沼津を離れる2001年。母校に講師として招かれ、高校1年生たちに記者の仕事について話した。「1日のうちの何時間かを『記者として働く』のではない。24時間丸ごと『記者になる』のだ」。眠い目をこすって働けという意味ではない。目が開いている限り、見ようとするのが記者だ、と伝えたかった。


 先日、ベッドに横になっていたら右太ももの付け根が「ピキッ」とした。4月の緊急入院で大動脈瘤(りゅう)が育っていることが分かり、ステントを差し込んだ場所だ。

 当時、痛み出す前兆はまったくなかった。ということは、今また突然痛み始め、死のふちをさまようこともありうる、ということだ。動脈瘤(りゅう)も静脈瘤も、原因が分からないままひっそりと育っていた。これもまた、知らぬ間に育っていてもおかしくないことになる。

 だから開き直ることにしたのだ。「何をするにしても今のうちだ」。「もういいです」と自分から打ち切るのは、あの時の受験生だけでいい。

 そのせいもあって、この1週間は忙しかった。今月9日は、政治学者の丸山真男をテーマにした大学の市民向け講座をのぞいた。愛想のかけらもない木製の椅子に2時間。がんで肉がそげおちた体はキシキシと悲鳴を上げた。

 翌10日は都内のJR水道橋駅で社内の知り合いと待ち合わせ、アメフト部の騒動で揺れる日大の建物が立ち並ぶ東京・神田三崎町を小一時間めぐった。風景のどこに目をつけるか。散策の「プロ」と見込む彼に同行させてもらったのだ。

 11日の通院を挟み、翌12日はオーストリア大使館へ。フェイスブックで知り合ったドイツ語翻訳・通訳の加藤淳さんの講演を聞いた。建築家アドルフ・ロースの生涯は畑違いなぶん新鮮だ。今さら畑を広げる余裕はないのだが――。

  ◇
 深夜。配偶者が寝静まった部屋で、むくりとベッドから起き上がる。食べたものはおなかの人工肛門(こうもん)からすぐに出てきてしまう。そしておなかにはり付けた袋にたまるから、トイレに捨てに行きつつ、新たに食べなくてはならない。まるで追いかけっこのようだ。

 食べ物と同じように、本の知識も取り込む先から抜け落ちていく。本に青鉛筆で線を引いてはメモを書き込み、本に食いつくように読むことで抵抗する。

 気づけば夜明けまで3時間ほどだ。「ああ、1日が終わる」。上下のまぶたをくっつけ、考え事をやめる。細い目が1本の線となり、記者の1日が幕を閉じる。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年6月16日掲載) 

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