1カ月ぶりの流動食“完飲”に9分19秒 難治がんとの必死の静かな闘い

うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は病気との静かな闘いについて。

【1カ月ぶりの食事にかかった時間は…】

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 腹の痛みに足をばたつかせ、「痛い」「苦しい」と叫び続ける――。先月の緊急入院では、そんな命に直結する激しい闘いを描いた。

 しかし、病気との闘いは派手な姿ばかりではない。むしろ地味なもの、いわば「動」に対する「静」がほとんどと言っていい。

 10月23日。入院以来、禁じられていた食事を1カ月ぶりに再開した。それはまさに「静」を凝縮した時間だった。

 再開はもともと先週末の予定だった。しかし、食べた物から体内にばい菌が入り、炎症で腹が痛み出すといったことになれば「動」の対処が必要になる。「何かあった時、平日のほうが医師が集まりやすい。週末のままいきますか、週をまたぎますか」と医師から示された二つの選択肢に「またぎましょう」と片方を選ぶことから、「静」の闘いは始まっている。

 初日の午前8時過ぎ、白いかっぽう着の女性が「野上さーん、お食事、お持ちしました」と置いていったのは、トレーに並んだ流動食のコップ三つと紙パックの牛乳。

 流動食を乗り切れば、次は三分がゆ、五分がゆ、全がゆと、次のステップがある。トレーの品々はその「試金石」だ。

 一つずつ、ふたを開けて確かめる。

 重湯。かつお節のにおいがする「みそ汁風」のスープ。白濁した甘そうな香りの液体は、名前を一瞬ど忘れしたが、くず湯だ。これにほうじ茶と牛乳というラインナップは前と変わらない。

 食事中にできる努力は、とにかく時間をかけることだけだ。あえてストップウォッチを使い、時間を意識した。

食べ物を口に含むと右腹がじわーっと痛む。食事の手を止め、痛みが鎮まるのを待って、また食べ物を口に運ぶ。まるで、習字の先生が紙に書いたお手本をなぞってゆくようにそろそろと、この作業を繰り返していった。

 検査によると、私の腸は何カ所か狭くなり、食べ物が引っかかりやすくなっているとされる。気休めと思いつつ、そこを広げるイメージで、体を伸ばしたりひねったりした。

 重湯を3、4口で飲み切るのに1分52秒。以前はトレー全体で1分19秒しかかからなかったから、かなり遅い。その調子でゆっくり進み、朝食の「完飲」には9分19秒をかけることができた。

さて、入院中であることを実感するのは、朝食と昼食の間隔が短いことだ。

 配膳された昼食のメニューも、重湯に「みそ汁風」スープと、朝食とほぼ変わらない。知人が見舞いに来るまで話のタネに取っておき、雑談しながら食べきった。

 夕方、病室に現れた医師から「朝食べて今おなかが痛くなっていないのならば、大丈夫。ファーストステップは越えた」と説明された。見送ってすぐ、配偶者にメッセージで伝えた。

 もっとも、その晩は貧血がひどかった。もともと散歩すれば足に、食事すれば胃腸あたりといった具合に血が集まってしまい、頭がぼーっとしびれた感じになる。素人による球技の試合で、ボールがある場所に選手たちが団子状に集まるイメージだ。

 それにしても、と思う。これまで食事をめぐる心配事といえばもっぱら、ものの味の感じ方がおかしくなる味覚障害と、口内炎だった。いずれも、がん本体の状態が悪くなり、抗がん剤を新しいものに差し替えることで生じる副作用だ。

 ところが現状では、がん本体とは離れたところで体調が悪化し、食事が取れない。たとえ副作用を伴うとしても、抗がん剤が使える体調に戻す。それが目標だ。

 食事を重ねるにつれ、胸やけがひどくなり、看護師に吐き気止めを頼むようになった。途中で「先ほどの錠剤は効きましたか。点滴に代えますか」と聞かれたが、効いた上で現状か、効いていないのか。難しい判断だ。

 3日目となる25日朝、食事に少し手をつけたところで、ついに吐いた。

 食事再開の試みはいったん中断し、体調が整うのを待つことになった。

 3日間の試みで良かったのは、口から食べ物を取ったことで、なかなか上がらなかった栄養状態の数値がよくなったことだ。

 それを「いいことがあれば、悪いこともある」とフラットに受けとめては、身もふたもない。せめて「悪いこともあれば、それに見合ういいこともある」と、次をめざして楽観的に構える。

 貧血でぼーっとした頭が元通りになるまで、ほかの患者でにぎやかな病室でひとり目をつぶってしのぐ。間隔を6時間おかないと使えない痛み止めの薬を1日にどう配分するか、痛む体と相談して決める。食事が取れるならば、たとえば流動食の完食にかかる時間を8分間、長くする――。

足をばたつかせることもなければ、声ひとつ上げるでもない。それでいて必死の静かな闘いが、また続いてゆく。

(出所:AERA.dot連載「書かずに死ねるか―『難治がん』と闘う記者」、2018年10月27日掲載)

1カ月ぶりの食事にかかったのは9分19秒。時間を意識するために、ストップウォッチではかった

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